一文字法話117 -分(わかつ)-
当山の初詣大祭は、お祀りしている元三大師(がんざんだいし)のご縁日である、1月3日の一日だけ。
感染状況が比較的落ち着いていた年末、
(コロナ禍前のご参詣があったら、現状の感染対策で対応しきれるだろうか…)
と、案じながら迎えたお正月でしたが、初詣をなさる皆さんのお心の中に、「分散参拝」という選択肢が根付かれたのか、賑やかさは徐々に戻りつつも、平穏無事にお祭り円成し、ホッとひと息ついております。
お参り下さる方の数は、毎年ほぼ一定で変わりがないのですが、現社会情勢下においては、それが「一日だけ」に集中するのではなく、〈成人の日〉前後の連休時期までに「分かれて」ご参詣くださること、お迎えする側とすると、大変に有難いことなのでした。
そんな思いからか、年明けから頭の中に、「分」という文字が良く浮かぶもので、
(今年は、「分」ということを、心に置きながら生きてみよう…)
と考えています。
「分」の文字は、「八+刀」。
「八」は、「物事を二つに分ける」ことの象形で、それに「刀」がついて、「切り分ける」状態を示すのですね。
イメージとしては、「円柱形のホールケーキを八等分に切り分ける」感じでしょうか。
もしこの「分」の字を、自らの人生に生かそうとするなら、
「今、自分の目の前にあるのは、どんな素材のケーキだろうか?」
と、考えてみることが大切だと思います。
そして併せて考えたいのは、
「ケーキを切り分けた後、どうするのか?」
という事柄で、たとえばそれを、分かち合おうとするなら、安らぎが生まれ、それを独占しようとしたり、奪い合おうしたりするなら、分断が生じることでしょう。
では仮に、目の前に「苦悩」というケーキがあったとします。
それは、自分のものでも、誰かのものでも、同様なのですが、人が物事を「苦」と感じる時というのは、
「その出来事や状態を、一人では持ちきれない」
ということだと考えるのですが、いかがでしょう。
だとすれば、私たちの取るべき態度はひとつ。「分担」です。
そこにある「苦というケーキ」を切り分けて、何人かで分けて担(にな)うのです。
健康のこと、仕事のこと、進路や人間関係のこと、各人、各様の「苦悩」があります。
そのケーキを、切り分けることができたなら?
そして、複数の人間で、分け持つことができたなら?
どれだけ生きるのが楽になることでしょう。
具体的には、
「私は今、こんなことで悩んでいます…」
「私は今、こういうことで困っています…」
等と、勇気を出して、思いを分かち合おうとする行動。
そして、
「大変そうだけど、何か力になれることがある?」
「浮かない顔をしているけれど、何かあったの?」
等と、周囲の人を分かろうとする態度。
それが、ケーキを切り分ける、きっかけになりますよね。
英語の口語表現で、「難しくないよ」「どうってことないよ」という意味合いを伝える時に「It’s a piece of cake(=カットされたケーキの一切れ)」という言い方があるのですが、ホールのままでは大きすぎるけれど、それを切り分け、みんなで分担出来た時、そこにスマイルの輪が生まれる気がいたします。
次に、「幸運」というケーキについて、考えてみます。
すなわち、自分の目の前に、「ハッピー」や「ラッキー」というケーキがあったら、どうするか?という事柄。
「独り占めしよう」という気持ちが、誰の心にも浮かぶかもしれませんが、欲張って全部を食べれば、きっとお腹をこわしますよね。
共通する具体的な方法は記せませんが、この時に「私はこれで十分」「分配してみんなで食べよう」という気持ちを起こせる人の周りに、やはりスマイルの輪が広がり、分けても幸福は減らず、逆に増幅すると思うのです。
人の中には、神さまの「分け御霊(みたま)」がやどり、それぞれには、尽くすべき「本分」があります。
「苦を分担しよう」と思える人。
「福のおすそ分けをしよう」と考えられる人。
そういう人間に、神さまは呼応し、ご褒美を与え、結果、本分を全うする道が、開けて行くのではないでしょうか。