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間違ってるかもしれない空の説明(私釈心経)4 半導体不足が教える空(くう)

半導体不足で製造業諸々に影響が出ているようですね。
最たるものは自動車でしょうか、私の周囲でも半年待ちはザラで、納車まで1年以上とかも、珍しくないようです。そんなこんなで、なんでも「半導体不足で…」と言えば許されちゃう風潮があり、木魚を頼んでも出来上がりが遅いのです。
(木魚に半導体は使わんだろ!?)と思っても、資材調達~制作過程~搬送システム等、色々が絡み合っての完成納入となるわけで、一連のどこか一か所でも滞れば物事が成就しない由(よし)、その相(ありさま)は、「すべての物事は繋がり合って成り立っている」と説く、『般若心経』の世界であります。

そして自動車も“また然り”。
自動車1台は、約3万個(!)の部品で出来上がっているそうです。
で、ここに再び『般若心経』の説くところを当てはめて喩えると、我々(=普通の人)が見るのは「1台の車」ですが、菩薩(=目覚めた人)はそれを、「3万個の部品」と見ることができる、ということなのです。
もちろん、そちら側の見方しかしない、ということではなく、覚者は、その両方の見方ができる、ということ。
すなわち、自動車は、「1台の車」であるのと同時に、「3万個の部品の組み合わせ」でもある、ということ。
で、そのような〈観の自在性〉を持つ目覚めた人(=観自在菩薩)が、苦厄を離れた、と説かれるお経が、『般若心経』なのです。

知りたいのは、
「目の前の車を、“3万個の部品”と見ることができると、どうして苦厄を離れることができるのか?」
という点ですよね。
まず確認すると、菩薩は自動車だけでなく、万物に対して、そうした見方をする、ということ。
すなわち、人を見ても、自然を見ても、食べ物を見ても、同様の見方ができるのです。
そしてそれは、自分の身に起こる出来事に対しても、同じです。

そうすると、たとえば目の前に、「苦しみ」という出来事が起きた時に、我々凡夫はそれを「ひと固まり」と見るのに対し、菩薩はそれを、「いくつかの部品の集まり」という視点で見ることができる。
で、自動車は、タイヤをはずせば走れなくなり、シートを取れば運転できなくなり、半導体が欠ければ作動しなくなり、エンジンをはずしちゃったら、もうそれは自動車とは呼べず、ただの鉄のかたまりと化すかもしれない。
「苦しみ」について同じように考えるなら、出来事を「苦しみ」と一括りにせずに、現象を冷静に見つめる時、その「苦しみを構成している部品」が浮かび上がってくる。
で、それら「苦しみを構成する部品」の、何処かを取り外したならば、苦しみが作動しなくなったり、もうそれは「苦しみ」とは呼べなくなったり…という流れの中で、菩薩は苦厄から脱してゆくのです。

「苦厄」は個別の現象ですから、その都度ごとに対処を検討する必要があり、「こうすれば必ず苦厄を離れることができる」と、一般論で扱うことはできません。
ですから今回記した事柄も、具体性を欠いた内容になってしまったかもしれませんが、半導体が一つ欠けても自動車が作れない事実を念頭に、「苦厄を構成部品で見る自在性」を、身に付けられたらなぁ…と思うのです。

〈前回の経文の続き〉
《受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶ にょぜ)。》

〈読み下し〉
「受・想・行・識」も、またまたかくの如し。

〈私釈〉
「色即是空・空即是色」を受けての言葉。
受(じゅ=外界の感受)、想(そう=感受によっておこる想念)、行(ぎょう=想念が生む行動意志)、識(しき=それらを受けて構成される思考・認識)、それぞれもまた「空(=見方が変われば、姿が変わる、固定的な実体がないもの)」なのだ。
「色即是空」のみが独り歩きしてしまっているが、これら一つひとつを言葉にして確認すれば、「受即是空・空即是受」「想即是空・空即是想」「行即是空・空即是行」「識即是空・空即是識」だ。
(経文の逐語訳ではなく、あくまで、「私なりのお経の受け止め」ですので、ご了解の上お読みください)。

【本日の“そうか!”】
(1)「苦しみ」は、何十種類かの部品の組み合わせで出来ている。 (2)だから、その部品のどれかを取り除くと、「苦しみ」が変化し、場合によっては「苦しみ」が成り立たなくなる。

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