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人間だからできること123 そこにいない人のために集まる

ご法事を営むことの尊さについて書きます。

~本人がいない場所でする噂話。
大抵はその人の悪口に類するもので、その場にいない人が、よっぽどの人格者でもない限り、その人のことをみんなで誉め合って盛り上がる、なんてことはないように思います。

そんな人の世ですが、「なき人の思い出話」ということになると、それは違ってまいります。
この場合には逆に、その人の〈善きところ〉が語られるようになり、なき人が、よっぽどの因業者でない限り、その人の悪口をみんなが言い合う、ということは少ないのではないでしょうか。

そしてこの後者、すなわち、
「当人がいない場所で、その人のことを誉める」
という集まりが「追善供養の場」で、招く方も招かれる方もご苦労ではありますが、「なき“いのち”を偲ぶ」という行いは、人間だからこそできる、尊いものだと感じるのです。

そもそも、
「そこにいない人のために集まる」
という事柄からして凄くないですか?
日常の暮らしの中、「当人不在の、その人のための集い」って、ご法事以外に、ちょっと思いつかぬ私です。
(もちろん、厳密には当人不在ではないのですが、「人としてのその方が、その場にいらっしゃらない」という趣旨と、ご理解ください。)

で、集まった人たちが何をするのか?というと、全員で、
「そこにいない人のことを思う」
わけです。
「偲ぶ」という字は、「人偏+思う」と書くのですが、故人とご縁を持った一人ひとりが、心のどこかにしまってある、なき人の思い出を紐解いていく…。
すると浮かび上がってくるのが、故人の人格や人生における「善なる部分」で、それらの中には、故人生前には見落としていたものも含まれているかもしれません。
こうした「なき人の善を追想・追慕する」という心の動きを、「追善」という言葉の解釈とすることもできると考えます。

そしてこれらの行い、すなわち、
「なき人のために集い、その人の善なる部分を追想し、手を合わせる」
という時間を、故人の視線から見たとします。
もし皆さんが、なき人の立場であったなら、みんながしてくれているこれら一連の行為-たとえばそれには、炎暑・厳寒・降雨等の中、墓所に詣で、自分のことを仏として拝んでくれる、等も含まれますよね-を、どのように感じるでしょうか…?

それらを見て、「当然のことだ」と嘯(うそぶ)く人は、恐らくいらっしゃらないでしょう。
なき人が抱くのは、感謝・感動・喜び・反省…等の、前向きな思いで、御霊(みたま)にとって、そうした体験ができるのと、できないのとでは、大きな違いがあると考える次第です。

~自分がしたことは、自分に返ってくる。
~与えたものと、同じものが、めぐり戻ってくる。
この世を貫く、因果の法則です。
情けも供養も、人のためならず、であります。
果を期待して行うのではありませんが、なき人に手向けたまごころが、善縁・善果を結ぶ因となるのは必然です。
なき人が感じてくれたものと同等の、静謐な喜びや、素直に感謝・感動・反省できる出来事などが、人生に現れる…。
それが、ご法事を営む功徳であります。

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