龍蔵寺の歴史

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厩橋城の祈願寺として
古来より人々の祈りに寄り添う寺

龍蔵寺はその起源を奈良時代まで遡り、
以降、厩橋城(前橋城)の祈願寺や、
僧侶の養成機関である談義所といった、
様々な役割を地域の中で担ってきました。
また、当山でお祀りする元三大師さまへの
信仰から「青柳厄除大師」や「青柳大師」などの
通称で親しまれ、現在も、縁日の一月三日には
多くの方で境内が賑わいます。

龍蔵寺の起源

龍蔵寺は、延暦二年(七八三年)に、日光山の開祖と知られる勝道上人によって、現在の青柳町に「満願寺」という名で建立されたのが始まりとされます。しかし、満願寺は兵火に遭い焼失してしまいます。

厩橋城(前橋城)の祈願寺として再建

貞治・應安の頃(一三六二~一三七五年)、笠間道玄入道が厩橋城築城の際、城の鬼門除けとして満願寺を城の北東に位置する現在地に移し、寺名を「龍蔵寺」と改めました。「満願寺」の寺名は日光へ移したとされます。以降、龍蔵寺は厩橋城主代々の祈願所とされました。龍蔵寺村の年番名主によって書き継がれてきた『龍蔵寺村日誌』には、龍蔵寺が前橋藩からの依頼で雨乞いの祈祷を行ったり、城主が病気になった際に護摩祈祷を行ったりといった記録がみられます。

寺名の由来

移築先であった現在の境内地は、その昔、利根川が流れており、龍が潜む程の深い場所であったことから、「龍ヶ淵」と呼ばれていました。川の流れが変わり、原野であったところを開拓して伽藍を建て、その地名から「龍蔵寺」と名づけられました。

関東八箇談林の一つとして僧侶を教育

龍蔵寺の正式名称は、「青柳山 談義堂院 龍蔵寺」と号します。中世になると、「談義所」や「談林」とよばれる、僧侶を養成する研究教育機関が、関東の各地に設置されるようになります。その中でも龍蔵寺は、龍蔵寺中興の祖である豪尊が康暦二年(一三八〇年)に僧侶を集めるなど、一大談林を築き、関東八箇談林の一つとして位置づけられていました。

火災と復興

寬保二年(一七四三年)、龍蔵寺は再び火災に遭い、本堂や庫裡、什宝、旧記等一切が焼失してしまいます。そして、延享三年(一七四六年)、前橋城主であった酒井忠恭により堂宇が再建されます。酒井氏は代々、篤く龍蔵寺の元三大師を信仰しており、五十石の寄進を行ったという記録も残っています。その後、増築や改修を経て、現在に至ります。